曽我神社

御祭神      曽我十郎祐成之命
       曽我五朗時致之命   例祭日 5月28日(傘焼神事)

由  緒

 曽我神社は、鎌倉時代、箱根権現の稚児であった曽我五郎時致と、兄十朗祐成の霊を慰めるため「勝名荒神祠」としてお祀りされたのが始まりである。

 江戸時代の正保四年(1647)小田原城主稲葉美濃守正則が石造の本殿を造営し、また平成の御代に社殿を改修した。祥月命日には故実による傘焼の神事(写真右)や、居合道の奉納等が行われ、今日なお心願成就の守護神として崇敬されている。

 曽我兄弟は、幼名を兄十郎は一萬、弟五郎は筥王と称した。

安元二年(1176)兄弟が5歳、3歳の時、同族間の所領争いが因で、実父河津三郎祐泰が工藤祐経に討たれるという不幸に遭遇した。

 母満江御前は兄弟の身に危険の及ぶことを恐れ、曽我祐信(相模国曽我城主)と再婚したので、兄弟も曽我姓を名乗り、やがて兄一萬は成人元服して十郎祐成と改めた。弟筥王は実父の菩堤を弔うべく箱根権現別当の行実僧正の下に預けられ稚児となったが、孝心やみがたく権現の森の奥深く、杉の木を相手に秘かに武術にはげんだ。(五郎が稽古に励んだ杉は兄弟杉と呼ばれている・写真下)

 文治三年(1186)正月、源頼朝の箱根権現「二所詣」に従い、参列した仇工藤祐経を眼のあたりにした筥王は、復讐の念に燃え隙を窺ったが果せず却って祐経に諭され、赤木柄の短刀を与えられた。

 建久元年(1190)17歳になった筥王は、出家を嫌い無断で箱根山を降り、元服して五郎時致と名乗り、兄十郎祐成と共に仇討を決意した。

 建久四年(1193)5月16日、心願成就祈願のため箱根権現に参拝した兄弟は、別当行実僧正から、門出の祝儀に宝刀の微塵丸、薄緑丸を授けられた。折から源頼朝に従って大巻狩中の仇敵工藤祐経を求め富士の裾野へ向った。そして遂に5月28日夜半、工藤祐経を陣屋に襲って倒し、先年与えられた赤木柄の短刀を以って止めを刺し、仇討本懐を遂げた。

 この時、兄十郎は戦死し、弟五郎は捕えられた。翌29日、五郎は頼朝の面前で堂々と仇討の真意をのべ、居並ぶ鎌倉武士を感嘆させたが、惜しまれながらも遂に斬首された。時に十郎は22歳、五郎は20歳であった。

 播州・赤穂義士の主君仇討と共に兄弟の孝心、忠節は武士の鑑と仰がれて神社に祀られると共に、多くの文芸や物語に語り継がれた。今日尚その誠烈な気風を慕い人々に尊崇されている。

居合道全国選抜八段戦箱根大会

曽我神社の例祭当日には、向いの武道場で居合道最高位「範士」の称号を持つ八〜九段剣士が全国から参集し、武士道を打立て孝心の鑑と仰がれる曽我兄弟と、武家の憲法「御成敗式目」起請文の筆頭にその名が挙がる箱根の大神様への奉納試合が行われます。
それが、居合道界至宝の大会「居合道全国選抜八段戦箱根大会」です。

平成5年、曽我兄弟800年大祭を記念してはじまり、第15回を数える本大会は、箱根神社御鎮座1250年の佳年を迎えた本年、特別記念大会として夏祭りに時を移し、8月6日盛大に開催されます。

宝物殿でも兄弟ゆかりの国指定重文財「赤木柄短刀」を始め、「微塵丸」「薄緑丸」の宝剣が特別展示の予定です。

神道の名言「御成敗式目」

  神は人の敬によりて威を増し
  人は神の徳によりて運を添ふ
      「御成敗式目」

 いかなる神も人間の崇敬をうけてこそ、その御威光を輝かすのであり、御神意を高めるのは人の敬の力である。その人が人としての運、人としての生命を与えられるのは、神の徳によってであるという意味です。神道の立場での神と人との密接な関係が的確に述べられている言葉です。

 「御成敗式目」は「貞永式目」とも呼ばれ、北条泰時が貞永元年(1232)に評定衆に命じて編纂させた鎌倉幕府の基本法典です。全部で五十一箇条からなっていますが、その第一条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」と定められ、続いて首題の名言があります。

 当神社は、鎌倉時代、源頼朝による特別の信仰と保護の下、鶴岡八幡宮に次ぐ幕府の準祭祀として、将軍家新年恒例行事の「二所詣」、即ち将軍自ら伊豆・箱根二所権現の参詣に預かりました。

 また、この武家の憲法ともいうべき、「御成敗式目」の起請文(神仏に捧げる願文)には

  梵天帝釈・四大天王、惣日本國中六十余州大小神祇、
  別而伊豆箱根両所権現・三島大明神・八幡大菩薩・
  天満大自在大神・部類眷属・神罰冥罰各可罷也、
  仍起請文如件。

とあり、願いを捧げる神仏の筆頭にあげられています。

 関東総鎮守・箱根神社は、幕府の所願所として、永く武門の崇敬をあつめてきました。